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東京高等裁判所 昭和55年(う)1750号 判決

控訴人 弁護人

被告人 中上川仁

弁護人 飯田孝朗 外一名

検察官 池之内顯二

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人飯田孝朗、同水島正明が連名で提出した控訴趣意書に記載されているとおりであり、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事今野健の提出した答弁書に記載されているとおりであるから、いずれもこれを引用する。

控訴趣意中理由不備を主張する点(控訴趣意第二)について

一  所論は、原判決は、本件公訴の提起は公訴権の濫用であるから棄却されるべきであるとの原審弁護人の主張に満足に答えていないのであつて、この点において原判決には理由の不備があると主張している。

しかしながら、そもそも公訴棄却を求める申立は職権の発動を促す意味を持つものに過ぎないから、裁判所はその申立に対して判断を示す義務を負わないのであつて、原審弁護人が、本件の公訴提起は公訴権の濫用であり、棄却されるべきであると主張したのに対し、原判決が、本件公訴提起は検察官が訴追裁量権を濫用してなされたものとは認められない旨説示してその主張を斥けているのも、職権で事実上右主張に対する判断を示したものに過ぎず、その判断として示されたところは刑訴法四四条一項、三三五条一項によつて要求される判決に付すべき理由には該当しないから、その説示するところが弁護人を満足させる程度に詳細でなかつたとしても、これを捉えて原判決に理由不備の違法があるとするのはあたらない。

二  また、所論は、原判決は、同判示第一の各寫真誌がわいせつ図画にあたる旨判示するに当たつて、「たとえ幼児であつてもことさらに陰部を露出させないことは、現在においても我が国において確立されている基本的な道義観念である」と説示しているが、原判決が右命題を導くためには、それが裁判官個人のあるいは社会的に一部の人達の道義観念ではなく社会一般に通用するいわゆる普通人の道義観念であることを証拠に基づいて認定する必要があるのであつて、この作業を欠いた原判決は証拠裁判主義に反し、理由不備の違法があるといわなければならない旨主張している。

しかしながら、文書、図画等のわいせつ性の判断は、事実認定の問題ではなく、法的価値判断の問題であり、裁判所がその判断をする場合の基準は一般社会において行われている良識すなわち社会通念であるが、その社会通念が如何なるものであるかの判断は裁判官に委ねられているのであつて、その判断に証拠上の根拠は必要でなく、その社会通念の何たるかを説示するに当たつて証拠上の根拠を示す必要もないところ、所論の指摘する前記説示は、同判示第一の各寫真誌がわいせつ図画にあたるか否かを判断するに当たつて、原審裁判官がその判断の基準とした社会通念の内容を明らかにしたものであるから、所論がいうようにその証拠上の根拠を掲げていないからといつて、これが理由の不備にあたるとはいえない。

三  更に、所論は、原判決は、同判示第一の各寫真誌について、「本件写真誌のうち右摘示の部分については、その程度は低いが、人の性慾を刺戟、興奮させ、正常な性的羞恥心を害するものであり、刑法一七五条のわいせつ図画にあたるものというべきである。」と説示しているところ、右の説示中に「右摘示の部分」とあるのは検察官指摘の部分を指すものと解されるが、原判決は、その余の部分のわいせつ性についてはどうなのか、またそれとの関係で本件各寫真誌全体のわいせつ性をどう考えるのかについて判断を示していないのであつて、かかる判断を欠いた原判決には理由不備の違法があると主張している。 しかしながら、原判決は、原判示第一の各寫真誌のわいせつ性について、検察官指摘の部分を中心に検討を加え、各寫真誌の右の部分について所論指摘のとおり説示するとともに、右各寫真誌がそれぞれ全体としてわいせつ図画にあたる旨判断しているのであつて、その説示するところに所論の主張するような理由の不備は存しない。

四  なお、所論は、原判決は、同判示第二の各寫真誌がわいせつ物等として輸入禁制品にあたるか否かについて税関の下した判断は、要するに無修正のままではわいせつ性があるが、マジツクインクによる修正を施せばわいせつ性がないということに尽きるとしたうえ、「(右判断は)その(マジツクインクで塗りつぶした部分の)復元の可否及び程度等を充分検討したうえで下されたものではないと認められる」と説示しているが、大橋弘の原審証言によると、税関の担当係官が右判断に当たつてマジツクインクで塗りつぶした部分の復元の可能性の有無及び程度等について検討したことは明らかであり、右説示を裏付ける証拠は何もないのであつて、前記説示には証拠理由の不備があると主張している。

そこで検討するのに、東京税関で図書調査課長として輸出入貨物の検査のうち風俗を害すべき書籍、図画その他の審査を担当している大橋弘は、差戻後の原審公判廷において、原判示第二の寫真誌は無修正のままではわいせつ性があるが、マジツクインクによる修正を施せばわいせつ性がない旨証言するとともに、マジツクインクによる修正の場合は、ザラ紙のように紙質が悪いものであれば復元は不可能であるから輸入を許可し、紙質の良いものの場合は、ベンジン、シンナー等で復元できるので輸入を許可していないが、紙質の種類は沢山あるので、復元の可能性については現場の担当者の判断に任せているけれども、埼玉県警の警察官が持参した右各寫真誌と同種の寫真誌を見たところ、その紙質では復元の可能性があると思つた旨証言しているのであつて、右証言に照らすと、税関が原判示第二の各寫真誌に掲載されている寫真中の陰部の部分をマジツクインクで塗りつぶすことによりその輸入を許可した際、税関の現場担当者がマジツクインクで塗りつぶした部分の復元の可能性について十分に検討しているとはいえないから、原判決が所論指摘のとおり説示しているところに証拠上の根拠がないとはいえない。

控訴趣意中事実誤認を主張する点(控訴趣意第三)について

所論は、原判決には、以下に述べるような判決に影響を及ぼすべき事実の誤認があると主張している。すなわち、原判決は、本件各寫真誌は陰部が露骨に写つていてわいせつな外国人児童のヌード寫真が登載されたものであると認定しているが、原判決が「争点についての判断」として説示しているところを検討すると、原判決は児童の陰部が明確に写つていること自体でわいせつ性を肯定できるとするもののようである。しかしながら、性器が「写つている」あるいは「見える」子供の裸は、子供の可愛いい自然な姿としてほほえましく受けとめるのが今日及び古来の社会通念であつて、原判決の前記認定は明らかに社会通念に反する。特に、本件寫真誌は、「子供は自然だ」という考え方のもとに作成されたものであり、本件寫真誌には、子供に自然でないポーズ、例えばことさら扇情的なポーズや性交のポーズなどをとらせるような表現は一切存在しないのであつて、このように真面目な意図のもとに作成された本件寫真誌をわいせつと認定することは誤りである。また、原判決は、起訴状の「多数の外国人少年少女の陰部を露骨に撮影したヌード写真」という訴因を、「陰部が露骨に写つていてわいせつな外国人児童のヌード写真」と変更して罪となるべき事実を認定しているが、その「争点に対する判断」として説示しているところを検討すると、原判決は、寫真の撮影方法が露骨であるとの検察官の主張は肯定しなかつたものと思われるし、検察官指摘の部分に対する判断においては、「陰部付近が大写しにされている」、「陰部が鮮明にみえる」、「陰部の状況をほぼ見ることができる」、「性的に未成熟とはいえ女児の陰部が鮮明に写された写真がある」というにとどまつているのに、わいせつ性の判断を導くにあたつては、「被写体の陰部付近をことさら強調した写真も少くない」とか、「陰部が露骨かつ鮮明に撮影された写真を含んでいる」と論じているのであつて、その認定は証拠に基づかないと同時に内容的に矛盾しており、理由そごの違法がある。更に、原判決は、同判示第二の各寫真誌についても、マジツクインクで塗りつぶした部分の画像を復元することは、通常人においても比較的容易に行なうことができる旨認定しているが、右認定は関係証拠の評価を誤つて事実を誤認したものである。以上の諸点の外、原判決は本件各寫真誌のわいせつ性及び犯意を阻却するとの原審弁護人の主張について判断するに当たり、証拠上当然に認めるべき諸点を欠落させているというのである。

ところで、右のように所論は原判決が本件各寫真誌はわいせつな図画にあたる旨判断しているところを事実の誤認であるとしているけれども、さきに説示したように右判断は事実認定の問題ではなく、法的価値判断すなわち法解釈の問題であるから、所論のうち原判決の右判断を争う部分に対しては、その判断に法令適用の誤りがあると主張している論旨に対して判断を示す際に併せて検討することとし、なお、所論のうち、原判決が犯意を阻却するとの原審弁護人の主張に対して判断するに当たつて、証拠上当然認めるべき諸点を欠落させている旨主張している部分は、実質的には右判断に法令適用の誤りがあると主張している論旨に付随関連するものであるから、右論旨について判断を示す際に併せて考察することとする。よつて、ここでは、原判決が、同判示第二の各寫真誌について、右塗りつぶした部分のマジツクインクを消去し画像を復元することは、通常人においても比較的容易に行なうことができる旨認定説示している点に誤認があるといえるか否かについて検討することになるが、原判決が、右の点について、鑑定人吉田公一作成の鑑定書及び同人の差戻後の原審公判廷における証言並びに差戻し後の原審第二回公判調書中証人本田進の供述記載及び同人作成の検証調書の内容を要約摘示しているところに誤りはなく、右各証拠によると、原判決が前記のように認定説示しているところに誤認は存在しない。

控訴趣意中法令適用の誤りを主張する点(控訴趣意第一)について

一  所論は、刑法一七五条は以下述べるように憲法に違反し無効な規定であるのに、これを合憲として本件に適用した原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがあると主張している。すなわち、憲法二一条で保障した表現の自由が性表現の自由を含むことは当然であり、かつ、その自由は絶対的なものであるから、これを禁圧する点において、刑法一七五条は、憲法二一条に違反する。また、理性を備えた通常人が、自ら性的な刺激を得るために、あるいは夫婦の性生活改善の知識を得るために、いわゆるポルノを楽しむことは、人間の本性に根ざす自然の欲求であり、幸福を追求する権利の内容をなすものであるところ、刑法一七五条は、その手段を奪う点において、憲法一三条に違反する。更に、性について各人がいかなる趣味や道義観念をもつかは極めて個人的、内面的なことであり、従つて、性に関する秩序や風俗は、刑罰による統制によつて規律されるべきものではなく、社会的良識、道徳律その他の社会的統制手段に委ねられるべき性質のものであるのに、刑法一七五条は、国家が最小限の道徳を守るという名目で刑罰法規をもつて国民各自の内面に立入ることを認めている点において、思想及び良心の自由を保障した憲法一九条に違反する。なお、いわゆるポルノ雑誌といえども、それがこれに接する人間に実質的な害悪をもたらすという根拠は何もないし、刑法一七五条にいう「わいせつ」の概念は極めてあいまいかつ不明確である。従つて、刑法一七五条は、合理的な処罰根拠を欠くばかりでなく、その規定する犯罪の構成要件も不明確であるといわなければならず、これらの点において憲法三一条に違反するというのである。

そこで、まず刑法一七五条が憲法一三条及び二一条に違反するとの論旨について考察するのに、憲法一三条は、同条にいわゆる幸福追求の権利が公共の福祉に反する場合には制約されることを明らかにしているところ、表現の自由を規定した憲法二一条は、憲法一三条の場合のように公共の福祉による制限の可能性を明示していないけれども、憲法一二条、一三条の規定からして表現の自由もその濫用が禁止され、公共の福祉の制限の下に立つものであり、絶対無制限のものでないことは最高裁判所がしばしば判示している(昭和二八年(あ)第一、七一三号同三二年三月一三日大法廷判決、昭和三九年(あ)第三〇五号同四四年一〇月一五日大法廷判決など)とおりであつて、性生活に関する秩序及び健全な風俗を維持するため、わいせつな文書、図面などを販売しあるいは販売の目的をもつてこれを所持するなどの行為を処罰の対象とすることは、国民生活全体の利益に合致するものと認められる(前記各最高裁判所判決参照)から、刑法一七五条は憲法一三条、二一条のいずれにも違反するものではない。

次に刑法一七五条が憲法一九条に違反するとの論旨について考察するのに、性生活に関する秩序や健全な風俗の維持に教育や宗教など法以外の社会規範の果たすべき役割の大きいことは否定できないが、法も性道徳を維持するため一定の役割を果たすべき任務を有するのであつて、これを否定するかの如き所論はつまるところ独自の見解というほかない。そして、刑法一七五条が個人の性に関する思想及び良心の内容を問題にしてこれを処罰する趣旨の規定ではなく、その思想及び良心の如何にかかわらず、同条所定の行為に及んだ者を処罰する趣旨の規定であることは明白であるから、刑法一七五条が憲法一九条に違反する旨の所論は前提を欠くものといわなければならない。

更に、刑法一七五条が憲法三一条に違反するとの論旨について考察するのに、さらに説示したとおり、性生活に関する秩序及び健全な風俗を維持するため、刑法一七五条所定の行為を処罰の対象とすることは国民生活全体の利益に合致するものと認められるから、刑法一七五条が合理的な処罰根拠を欠くとはいえないばかりでなく、刑法一七五条にいうわいせつな文書、図画などは、徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、かつ普通人の性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものを指しているものと解釈でき、文書、図画などが右の要件を充足しているか否かは一般社会人の良識すなわち社会通念に照らして判断されるのであるが、その一般社会人の良識の何たるかは普通人にとつても認識可能であるから、刑法一七五条の規定する犯罪の構成要件が不明確であるとはいえず、刑法一七五条は憲法三一条に違反するものではない。

二  ところで、所論は、右のように刑法一七五条の規定自体の違憲をいうほか、被告人の本件所為に同条を適用することが憲法に違反するとして、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな法令適用の誤りがあると主張している。すなわち、仮に刑法一七五条により性表現の規制が許される場合があり得るとしても、それにはそれが前記国民の憲法上の諸権利を制限しても真にやむをえないだけの実質的合理的理由が必要であるとともに、その規制は右目的の達成上必要最小限度のものでなければならない。性行為とりわけ交接部位を無修正で表現したいわゆるハードコアポルノではなく、性行為や性的姿態をとつたものでもなく、子供が裸で遊んでいる寫真で、しかも慎重にも大きめの子供についてはその陰部等を消去修正している本件各寫真誌のようなものにまで刑法一七五条を適用することは、右限界を超えた刑罰権の発動というべく、前記国民の諸権利を侵害するものとして違憲であるというのである。

しかしながら、刑法一七五条は、わいせつな文書、図画などを販売し、あるいは販売の目的で所持するなどの同条所定の行為を全面的に処罰の対象としているのであつて、わいせつな文書や図画などのうち一定のもの、例えば所論がいうような性行為とりわけ交接部位を無修正で表現した寫真のようなものについてだけ同条所定の行為を禁止しているものではないと解すべきところ、刑法一七五条は所論のいうように憲法の諸条項に違反するものではないから、本件各寫真誌がわいせつの図画にあたると判断される限り、被告人の本件所為に刑法一七五条を適用した原判決を違憲と難ずべきいおれはないのであつて、違憲をいう右所論の実質は、結局本件各寫真誌がわいせつな図画にあたるとの原判決の判断を争う趣意を出ないものであるといわなければならない。

三  また、所論は、原判決は、誤つた事実認定を基礎に本件各寫真誌をわいせつな図画にあたると判断したが、これは刑法一七五条の解釈を誤つたもので、原判決には判決に影響を及ぼすべき法令適用の誤りがあると主張しているが、特に、原判決が、同判示第一の各寫真誌中検察官指摘の部分について、「その程度は低いが、人の性慾を刺戟、興奮させ、正常な性的羞恥心を害するものであり、刑法一七五条のわいせつ図画にあたるものというべきである。」と説示している点について、最高裁判所のいわゆるチヤタレー判決以降過去のいかなる判例も「徒らに」性欲を興奮又は刺激せしめることをわいせつの要件としてきたのに、原判決はわいせつの要件としてこれを明示していないとして、原判決がわいせつの要件に関する法令の解釈を誤つていることは明らかであると主張している。

そこで、まず原判示第一の各寫真誌が刑法一七五条にいわゆるわいせつな図画にあたるとする原判決の判断の当否について検討するのに、押収してある寫真誌六三冊(東京高等裁判所押第六二六号の三ないし九、二〇、二一、三〇ないし三二)によると、原判決が、原判示第一の各寫真誌について、その内容は、その殆どが全裸で陰部を露出した一名ないし数名の外国人男女をかなりの至近距離から撮影した多数のモノクロームの寫真及びカラー寫真と若干の英文の説明文から成るものであるが、被写体のうち成人の男女及び未成年者のうち性的に相当成熟したと思われる者については、性器の部分が見えないように修正が施されているけれども、性的に未成熟と思われる男女児については、その殆どについて右のような修正が加えられておらず、未修正の女児の寫真については、足を開いた姿勢で陰部を比較的大きく写したものが多く含まれており、被写体の姿勢及びカメラアングル等に徴すると、これら被写体の陰部付近をことさら強調した寫真も少くないとし、原審検察官指摘の部分を中心に更に詳細な検討を加えたうえ、右寫真誌は、その多くは性的に未成熟な女児についてのものであるとはいえ、陰部が露骨かつ鮮明に撮影された寫真を含んでいる旨認定説示しているところに誤りはない。

所論は、右説示中、原判決が、被写体の陰部付近をことさら強調した寫真も少くないものと認められるとし、また、陰部が露骨かつ鮮明に撮影された寫真を含んでいるとしているのは事実の認定を誤つたものであるとし、例えば、ヌーデイストモペツトNo. 1の二四頁及び二五頁の各寫真に写つている女児は足は開いているが、その表情特に目やその動作からみて扇情的なところや不自然なところは全くなく、また、その陰部を大写しにしているのではなく、少女全体を大写しにしているのである、そして何よりもその女児は二、三歳の幼児ではないかと主張しているが、所論指摘のヌーデイストモペツトNo. 1の二四頁及び二五頁の各寫真は、陰部だけを大写しにしたものではなく、女児全体を大写しにしたものであり、かつ、性的に未熟な女児の寫真ではあるが、右寫真誌二三頁の英文記事を参照すると、同女児は所論のいうように二、三歳ではなく、就学を間近に控えた年齢の女児と認められるところ、右各寫真にはいずれも足を開いた姿勢でその陰部付近が大写しにされており、二五頁の写真は陰部付近に修正が施されてはいるものの、修正が不完全なため、いずれも陰部がかなり鮮明にみえるばかりでなく、右寫真誌には、そのほか一三頁上段、同下段、一七頁下段、二一頁、二二頁、二八頁、二九頁下段にも女児が股を開いて陰部が露骨かつ鮮明に撮影された寫真が掲載されていること及びその他の各寫真誌にもそれぞれこれと同種の寫真が多数掲載されていることが明らかであつて、被写体の姿勢及びカメラアングル等に徴すると、それらの寫真は女児の陰部付近をことさら露骨かつ鮮明に写したものというほかないから、原判決が前記各寫真誌に掲載されている未修正の女児の寫真について前記のように説示しているところに誤りがあるとはいえない。なお、所論は、原判決の前記説示は証拠に基づかないと同時に内容的に矛盾しており、理由そごの違法があると主張しているが、右説示が証拠に基づかないとの非難はあたらないし、その説示するところに論理的矛盾は存しない。

ところで、裁判所が文書、図画などについてわいせつ性の有無を判断する場合の基準は社会通念であるが、その社会通念は常に変動しているものといわなければならないけれども、現在においても、不特定又は多数の者の覚知し得る状態で性器を露出することは特殊な例外的場合を除いて許されないという社会通念が存在することは否定できないのであつて、その社会通念に基づいて判断すると、原判示第一の各寫真誌は、そこに掲載されている寫真の多くが性的に未熟な女児のものであるためその程度は低いけれども、なお徒らに性欲を興奮又は刺戟せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものというべきであるから、右各寫真誌が刑法一七五条のわいせつ図画にあたるとした原判決の判断は正当である。」

右の点について所論に鑑み若干付言すると、年齢的に既に児童と呼ぶべき段階まで成長した女子が股を開いてその性器を公然露出している姿を見て、所論のいうように子供の可愛い自然な姿としてほほえましく受けとめるのが今日及び古来の社会通念であるなどとは到底考えられない。また、原判示第一の各寫真誌のわいせつ性の有無は、その寫真誌自体について客観的に判断されるべきもので、右各寫真誌が如何なる意図で作成されたかは右各寫真誌がわいせつな図画にあたるか否かを判断するについて何らの影響を及ぼすものではない。更に、本件寫真誌に類似する寫真誌などが公然販売されている事実があつたとしても、一般社会における良識が右事実を是認しているとは解されないから、右事実は原判決のいうとおり本件寫真誌のわいせつ性認定の妨げとなるものではない。なお、原判決がわいせつの要件を最高裁判所累次の判例が示すとおりに解釈していることは、憲法違反の主張について判断を示す際原判決が明確に説示しているとおりであつて、その点について原判決が最高裁判所の判例と異る解釈をしている旨主張し、その法令解釈に誤りがあるとする所論は、措辞の枝葉末節に拘泥して徒らに原判決を論難するものに過ぎない。

次に、原判示第二の各寫真誌がわいせつな図画にあたるとする原判決の判断の当否について検討するのに、押収してある寫真誌五〇冊(前同押号の二八及び二九)によると、原判示第二の各寫真誌の内容は、原判決が説示しているとおり、おおむね十代前半と推定される外国人男児の裸体を被写体とする多数のモノクローム及びカラー寫真から成るものであるが、各寫真中の陰部に相当する部分はすべて黒色マジツクインクで塗りつぶされているため、そのままの状態ではその陰部等を見ることはできないけれども、右塗りつぶした部分のマジツクインクを消去して復元した右寫真誌をみると、各寫真に撮影されている者の性器は性的に相当成熟したものが少なくなく、中には陰毛が生えているものもあること、鑑定人吉田公一作成の鑑定書及び同人の原審公判廷における証言並びに差戻後の原審第二回公判調書中証人本田進の供述記載及び同人作成の検証調書によると、原判決が認定説示しているとおり、右塗りつぶした部分を消去し画像を復元することは、通常人においても比較的容易に行なうことができることが明らかであつて、前記社会通念に照らすと、原判決が、右各寫真誌はわいせつ図画にあたるものであり、右各寫真誌については、その陰部をマジツクインクにより塗りつぶしたままの状態においても、その除去の容易性に照らしてこれをわいせつ図画と認めるのが相当である旨判断しているところは、正当としてこれを是認することができる。

四  なお、所論は、原判決は、犯意を阻却するとの弁護人の主張を排斥するに当たつて、原審で取り調べた通関証明書は、原判示第一の各寫真誌のうちモペットの複製前の原本が税関の審査を経て輸入を許可されたもので被告人は複製前にそのことを知つていた旨の被告人の供述を裏付けるに足りるものではないと説示しているが、通関証明書によつて通関の事実を認めないのは不当であり、その説示は、故意阻却事由の存在を被告人の立証責任事項とするかのような判示といわなければならず、犯意の阻却事由の存在しないことについて検察官が立証責任を負うとの刑事法の鉄則に違反するものといわざるをえないのみならず、原判決が犯意の阻却事由が存在しない旨の結論を導く際に行つた証拠の取捨選択は、到成人を納得させるに足りるものではない旨主張している。

ところで、所論が原判決に法令適用の誤りがあるとする一事由として主張している右の部分が、如何なる意味で法令適用の誤りを主張していることになるのか、その趣意が明確とはいえないが、その主張は犯意の存否に関する原判決の事実認定及びこれに関する原判決の説示を論難するものと理解できるし、そのように理解すれば、刑訴法によつて限定されている控訴理由として適法なものといわなければならないから、その主張するところが果たして法令適用の誤りという控訴理由に該当するか否かということにとらわれず、原判決の当該説示の当否について考察してみるのに、原判決の右説示に所論のいうような違法不当な点は存しない。すなわち、原判決が通関証明書と表示している書面は、被告人が通関証明書と称して本件寫真誌の被販売者に交付していた書面であるが、右書面によると、その書面自体によつては原判示第一の寫真誌のうちモペツトの複製前の原本が税関の審査を経たものであるとの被告人の供述が明確に裏付けられているとはいえないから、その旨原判決が説示しているところに何ら不当な点は存しないし、その説示を捉えて故意阻却事由の存在を被告人の立証責任事項にするかのような判示をしていると非難するのはあたらない。尤も、当審における事実取調の結果をも参酌すると、原判示第一の各寫真誌のうちモペツトNo. 3については、複製前の原本の輸入が東京税関東京航空貨物出張所長によつて許可されていた蓋然性が強く、したがつて右許可の事実を被告人がその複製前に知つていたことも殆ど間違いと認められるが、被告人は、右の原本をマリ企画印刷に持ち込み、小川信好と共にかなり多数の寫真についてわいせつ性が問題となりそうな部分にボカシを入れるなどして修正を施したうえ、複製印刷させたことが証拠上明らかであつて、右事実に徴すれば、被告人において、右寫真誌の原本の輸入が税関によつて許可されている事実から、直ちにその原本のわいせつ性が問題にされることはないと考えていた事実のないことは明白であるといわなければならない。そして、原判決が、原判示第一の各寫真誌について、被告人は、本件犯行当時未必的であるにせよその販売が法律上許されないことを知つていたと認めるのが相当であるとし、また、同判示第二の各寫真誌について、被告人が右寫真誌を販売の目的で所持するにつき、違法性の意識を欠いていたと仮定しても、右の意識を欠いたことに相当な理由があつたとはいえない旨説示しているところは十分首肯できるのであつて、その説示の前提をなす証拠の評価にも所論のいうような不当な点は存しない。

以上を要するに、原判決には所論のいうような理由の不備、事実の誤認及び法令適用の誤りはなく、論旨は総て理由がないから、刑訴法三九六条により本件控訴を棄却することとして、主文のとおり判決をする。

(裁判長裁判官 四ツ谷巖 裁判官 阿蘇成人 裁判官 高橋省吾)

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